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筒井康隆の『残像に口紅を』を読んで思うこと (堅め)

 

 

残像に口紅を』 筒井康隆

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舟越桂のカバーイラストが印象的

 ”「あ」が使えなくなると、「愛」も「あなた」も消えてしまった。世界からひとつ、またひとつと、ことばが消えてゆく。愛するものを失うことは、とても哀しい…。言語が消滅するなかで、執筆し、飲食し、講演し、交情する小説家を描き、その後の著者自身の断筆状況を予感させる、究極の実験的長篇小説。“

 

 私たちは、いま暮らしているこの世界こそが現実だと思っている。しかし、それは本当だろうか?もちろんオカルトやおとぎ話などの類ではない。

 

 筒井康隆の『残像に口紅を』は、言葉をテーマにした実験的な作品である。この作品は、主人公は自らの存在が小説内にある、つまり虚構内存在と知っているメタフィクション的な設定となっている。たしかに小説は言葉によって構成されているため、虚構の世界だと言えるだろう。しかし私たちの世界においても言葉とは、混沌に満ちた得体の知れない世界に構造を与え、秩序をもたらしている道具だ。よって私たちも言葉によって構築された認識世界、もとい虚構の世界像の上で生きているといっても過言ではない。

 

 例えば少し考えてみてほしい。私たちは「愛」という言葉を持っているため、愛について考え、語りあうことができる。しかし、もし「愛」という言葉が存在しなかったら愛の概念も無く、人々は「胸に湧きあがる情熱」や「陽だまりにいるようなあたたかい気持ち」のようなものをどう理解し、論じたらよいだろうか。「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」とは、かの哲学者ウィトゲンシュタインの言葉だったか。普段いかに私たちが言語と、その言語が持つイメージ(思考)のなかで生きているかということである。

 

 また、私たちはある得体の知れない生き物に、「犬」と名前をつけた。四足歩行でワンワンと鳴く、人類の最良の友こそが「犬」である。しかし犬にも毛が長いものや短いもの、白いものや茶色いもの、ニャンと鳴くものもいるかもしれない。細かく種族に名前があるとはいえ、それを言葉にするということは実存する犬のあらゆる性質を捨象し、「犬」として私たちの認識世界に映し出すことに他ならない。つまり、犬にも「犬」ではない部分があるのだが、この過程で実存世界の犬は疎外ないしは隠蔽されているのだ。

 

 このような隠蔽された世界の実像に迫り、そこに広がる混沌を言葉や線、色や音によって表現しようとしたものが芸術であるといえるだろう。言葉で表現できないものを、言葉で表現しようとする。この行為は矛盾を孕んでいるといえるが、その矛盾こそが書き手の葛藤を生み、文学を文学たらしめるのだろう。なかでもとりわけこの特徴が顕著に表れているのが詩ではないだろうか。

 

 実際に『残像に口紅を』の後半は、多くの音(おん)が失われどこか詩的な雰囲気がある。語りたいが、語ろうにも言葉が無い。この状況から生み出される文章は歪だが、しかし小説とは思えない現実感が漂っている。これは筆者が言葉(虚構)の限界まで迫り、到達まではせずとも実存世界のリアリティーが垣間見られたということだ。言葉が消えていく小説を執筆する苦労など想像を絶するが、生み出された文章からは、言葉を扱う作家としての意地とプライドさえ感じられる。

 

 長々と書いてきたが、この作品の趣向を知っただけで読んだ気になってはいけない。作者の語彙の豊富さもさることながら、私たちの世界に対する違和感や不気味さは、実際に文章を読んでしか体験できない。ぜひ手に取って最後まで読むことをすすめたい。

 

 

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あるときに本の紹介のために作ったポップ。実際に2段落目から音を使わずに書いているが、10音でも相当つらかった。実際には「趣旨」に「ゆ」を使ってしまっているのだが、当作品もミスが何ヵ所かあるという。巻末の論文に詳しく書かれているが、探してみるのも面白いかもしれない。

 

残像に口紅を (中公文庫)